ほぼ日17周年。これまでEvernoteに保存してきた心にぐっと刺さる「今日のダーリン」特集(2013年版)

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17年! 想像もできないくらい、長い道のり。これまで7年も同じことをずーっとやってきたことはありません。毎日「今日のダーリン」を書き続けるということがどれだけ大変か、2年くらい毎日書くということをやっていたのでほんのすこーしだけ分かります。2年でさえ大変だったのに、その8倍の期間続けることなんて、今考えると絶対にムリです。

若い「ほぼ日」が、落ち着かなくてはいけないときには
イトイの経験を役に立てる。
老いて落ち着いてしまいそうなイトイが
突っ走ろうというときには「ほぼ日」の若さを利用する。
ふたつの年齢を持っていたからこそ、
やってこられたような気がしています。

実は、WunderlistのTODOにリマインダーを入れて、毎日糸井さんが書く「今日のダーリン」を見ているのですが、その中で心にぐっと刺さったコラムをEvernoteからひっぱってきて紹介します。もう一度読み返していたのですが、どうにも多くなってしまい、今回は2013年版を紹介します。(なぜ2013年からなのかというと、Evernoteに保存し始めたのが、そのころだからです。)

2014年版はこちら


2013年9月22日

毎日書く、ということは見ている立場だと見ているだけだからラクなんだけど、書く方は結構大変なのです。でも、こんなふうに「書けないことをネタにする」ことができるようになれれば、あと少し書いてみようかなと思えるんですよね。

この『今日のダーリン』という文は、
 毎日、日付が変わったころに書いて、
 翌朝に掲載されるというリズムで続いているのですが、
 たまに、困ったことがあるんです。

 それはですね、「こういうことを書こう」と思って、
 書き出したのはいいんだけれど、
 途中で、ちっともおもしろくないことに気づく。
 あるいは、うまく書ければおもしろいかもしれないけど、
 どうにも、うまく書けないということに気づく。

 おもしろくないにしても、うまく書けないにしても、
 脳みそはどんよりしているわけですから、
 順風満帆で、「だめだ」と気づく地点まで
 たどり着いたはずもありません。
 いつも以上に時間もかかっていたり、
 いつもとちがう思考回路を使っていたのでしょう。
 つまり、余計な苦労もいつもよりしているんです。

 だから、ここであきらめたら
 苦労が無駄になっちゃうという気がして、
 ねばったりする‥‥というのはウソで、
 こういうときには、書きかけのテキストを保存して、
 倉庫みたいなファイル箱に捨てちゃうんです。
 ここらへんで時計を見ると、がっくりします。
 困ったなぁと、ため息をついたりします。

 で、そこまで考えていたことをぜんぶ忘れて、
 「もっと、軽く書きはじめる」のです。
 書けるに決まってることを、書きはじめる。
 そうやって書いた日も、何度もあります。
 それが、おもしろいのかは保証の限りではないのですが、
 なんとか1回分という感じで、書き終えられるのが大事。
 「いいかげんなことやってるなぁ」と思わば思え。
 「軽く書きはじめたら、なんとかなる」というのは、
 出来の良し悪しを超えて、大事のことなのです。

 さて、うすうすどころか、はっきりおわかりでしょうが、
 この文そのものが、そうやって書いたごまかしの文です。
 毎日書くてぇのは、こういうことなのでございます。

 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
 進んで泥沼に入る前に勇気をもって撤退せよ。ほんまやで。

 

2013年10月14日

教えてもらおう、すごい経験者入ってこないかな、なんて思っていたら、もうそこでダメだね。他の人の手を借りる前に、まずは自分の手の力を強めなきゃ、と思いました。

後から参入する者に、場所なんか空いてないのだ。
 空いているとしても、最悪の場所だけだ。
 前々からそれをやっている者が、
 めんどくさいから手を付けてない場所が、少しだ。
 それが、いつも当たり前のことだ。

 新しいなにかが生まれるのは、
 場所なんかもらえなかった者たちが、
 苦しまぎれに、「これしかない」とやったことからだ。
 「少しだけ、空いてる場所を分けてください」と、
 平身低頭してお願いしているうちに、
 時間はどんどん過ぎていくし、
 いい機会も得られないままになる。

 鉄道をひけなくても、自動車があった。
 映画をつくれなくても、テレビがあった。
 大きな舞台はなくても、小劇場があった。
 大きな同業者組合ができているようなところに、
 新しく参入することを歓迎してもらえるのは、
 「これまでの権利を脅かさないやつ」だけかもしれない。

 場所なんか空いてると思わないほうがいいのだ。
 居心地の悪い、座ればけつの痛くなるような荒地だけが、
 新しい人びとがスタートを切れる場所だ。
 おそらく、道具も揃っちゃいないし、
 誰もが認めるすばらしい人なんか集まることもない。
 しかし、そこが、場所なのだ。

・若い人に言うことは、じぶんに言うことでもある。
 あなたにも、ぼくにも、
 用意された場所はなかったはずだし、
 周到に計画された図面なんてものもなかったと思うのだ。
 次の時代は、いつでも、
 場所なんかなかった者たちの場所からはじまっている。
 道具がなければ、じぶんでつくる。
 人手が足りなければ、寝ないでもがんばる。
 そういう古臭い冒険心みたいなものが、肝心なのだ。

 「どこにも場所が空いてない」ということは、
 いつも、新しいなにかの出発であった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
歓迎されたかったり認められたかったりは、悪いくせかも。

 

2013年11月12日

テレビやメディアに出ている、すごい人にあったときに「何を話せばいいのか」問題は今も渦巻いています。でも、そう思っていること自体が違うんじゃないか、ということを再確認させてくれました。「ああ、いたよこんなやつ」と思えたらもう少しラクに話せそう。

いろんな人に会うけれど、
 その人がどういう人なのかを考えるときに、
 ぼくは、彼や彼女を、
 じぶんの知っている中学校の教室に
 置いてみることにしています。
 世間を知りつくしたような老人でも、どれほどの美女でも、
 ふと「中学の教室」での姿が見えるものです。
 むろん、そう言ってるぼく自身も、
 いっしょにその教室に立ってみます。
 そうすると「ああ、こんなやついたな」と思えてくるのです。

 むろん、その「こんなやつ」というのが、
 校内で一番のヒーローだったり、
 他の学校から野次馬が来るようなマドンナだったりします。
 それでも、中学生ですからね、たいしたものじゃないです。
 いじめっこもいるし、あか抜けないガリ勉くんもいます。
 へらへら笑ってるやつだとか、なんだか妙に意地っ張りなやつ、
 心配ごとばかり言うやつ、知ったかぶり…とにかくいろいろ。
 だいたい、どんな大人でも、その中学生が、
 いろいろ経験したり飾ったりした途中経過だと思うのです。
 人の中身というか、中心になる「主体」は、
 ぼくが思うには、中学生なんだと思えるのです。

 特に、なにかに夢中になっていたり本気になっているとき、
 人間はそれを中学生のようにやっているはずです。
 じぶんなりの誤解かもしれませんが、
 社会は中学生どうしのぶつかり合いです。
 中学生以上の大人に見えるところは、
 料理で言えば、味付けみたいなものだという気がします。

 こんなふうに思っていると、人と接するのに
 余計な緊張はなくなりますし、
 同時に見下したりすることもできません。
 じぶんも、強からずな中学生なんですからね。
 この「人の見方」、ぼくも無意識でやっていたのですが、
 これを、当たり前のようにやっている人たちもいます。
 たぶん、「水商売のママ」は、そうやっていると思うな。
 日本の黒幕であろうが、銀幕の大スターであろうが、
 かつて「中学の教室」で見かけたあいつが主体です。
 あ、これがいわゆる「中の人」ですね…ちがうか。

 今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
 中学生っぽさから離れすぎた人は、パワーも落ちるかも。

 

2013年11月16日

「だれかの力になりたいと思ったときに、じぶんに力がなかったら、とても残念だろう?」何の分野でだれかに貢献したいのか、ということなんでしょう。今のじぶんには何もできないので、これ というものを探し中です。

「ともだちが困ったとき、力になるために」
 というのが、勉強をする理由かもしれない。
 そんなふうに考えたことがあった。
 じぶんのこどもが、小学校に入るころに、
 そのことを考えざるを得なかったから、考えた。

 なんで勉強するの?
 というのは、こどものころからわからないままだった。
 いろんな人が教えてくれようとしたけれど、
 なんだか、ほんとにそうだなと思えないままだった。
 いまでも、正解がこれなのかはわからないけれど、
 「だれかの力になりたいと思ったときに、
 じぶんに力がなかったら、とても残念だろう?」
 ということは、いまでも思う。

 東北の被災した人たちのところで、
 まだ傷口がひりひりしているような時期に、
 ぼくらは、よく食事をごちそうされた。
 なにも困ってないぼくらは、遠慮しなければと思って、
 ぐずぐずしていたら、きっぱりと言われた。
 「わたしたちは、ごちそうしたいんです。
 遠くから来てくれた人に、あんまりできないけど、
 わたしたちのほうが、食べてってほしいんです」、と。
 贈りものをされることも、うれしいかもしれないが、
 贈りものをすることも、人のしたい、うれしいことだ。

 じぶんに、いま力がないと思ったときにも、
 だれかのために出す力は、ちょっと残っていたりする。
 そして、力って、使うほどついていくものだ。
 「だれかの力になりたい」というのは、
 本能に近いようなことなんじゃないかと思う。

 自然な人ばかりでなく、法人と呼ばれる会社も、
 きっと似たようなものだと思えるのだ。
 「なんで働くの?」は、
 こどもが勉強する理由と同じかもしれない。
 「だれかの力になりたいと思ったときに、
 じぶんに力がなかったら、とても残念だろう?」
 はたらくと、力がつく。力を使うと、力がつく。
 ついた力は、結果的に、じぶんたちをも助けてくれる。

 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
 いろんな人がいろんな力を使うところを、中継する日です。

 

2013年12月5日

たのしいね、こういう「少しハズした文章」も混ざっているのが「今日のダーリン」のすきなところ。そういうのを見つけて保存したときは、見つけられてヤッタ!と思っています。

★★★★★ なにより役立つ一生の友に

 公的な場所で、何度も見たことはありましたが、
 自分の家に迎えられるようになるとは、
 まずは、文明の進歩に感謝したい気持ちでいっぱいです。
 この日のために家を新築して待っていました。
 その姿かたち大きさ重さともに申し分なしです。
 存在自体が「偉大」であり、子供への無言の教師です。
 おそらくモデルチェンジもないでしょうから、
 一生の友として、寄り添っていこうと思っています。
 さて、なにを運んでもらおうか。

 ★★★☆☆ コスト的に問題も。

 教材用に、学校で購買いたしました。
 夜間に騒音を発することがあること、
 廃棄物の量が、説明されていなかったために、
 処理に思わぬコストがかかりました。
 生徒たちには好評なのですが、やはり高価すぎました。
 公開しての入場料収入も、と検討していますが‥‥。

 ★☆☆☆☆ イメージとちがった。

 大きすぎるし、少しもかわいらしさがない。
 写真ではわからなかったシワや毛も目立ちます。
 絵本で見るような「ぞうさん」を期待していましたが、
 これでは、愛娘を近づけることもできません。
 どこが「やさしい目」と「愛嬌のある長い鼻」ですか。
 毎日、怖くてたまりません。

 ‥‥いや、その、手すさびに、
 アマゾンのカスタマーレビューのまねをしてみました。
 「象」を売ってたらということで書いてたのですが、
 ま、こんなんでごめんなさいね。
 ちょっと書いてて思ったのは、レビューって、
 される商品の側以上に、評者のほうの個性を、
 表わしてしまうものなんだなぁってことでした。
 しかし、ま、象さん、ごめんなさいね。
 あちこちのどうぶつたちに、幸あれと祈ります。

 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
 なにかについてなにか言うって、その人が出ちゃうよなぁ。

 

2013年12月9日

「ちゃんとしている人」ではなく「ちゃんとしようとしている人」。後者は現在進行形でアップデートしている感じがして、とてもいいことば。

地球環境の今後について、この国の行く末について、
 口角に泡をためて大声を出すのは、あんがい簡単である。
 ただ、言ってればいいからだ。

 家族の不仲がどうにもならなくなったとか、
 子どもが病気になったとか、職を失ったとか、
 店がつぶれたとかという問題については、
 声を出すより先に、どうにかしなくてはならないので、
 少しも簡単ではないし解決の道を見失うことだってある。

 新聞の一面に出ているようなことについて、
 あれこれ語っていると、なんだか
 むつかしそうで高級そうなのだけれど、
 考えようによっては、誰にでもできる簡単なことだ。
 家のことやら、近所の問題があったとき、
 しっかりと解決することは、実にたいしたことである。

 近いところのことを、ちゃんとできる人になるには、
 どうしたらいいというような勉強の方法もコツもない。
 じぶんの頭を使って、やけにならずに、
 できるかぎり悲しむ人のいないように、
 誠実にやることだけなのだろう。
 それができるのが、ちゃんとした人なのだと思うのだ。

 そんなことを言っているぼく自身が、
 ちゃんとした人であるとは、決して言えない。
 遠い距離のこと、遠くて見えないおおぜいの人たちとは、
 曲がりなりにもつきあえているようにも見えるが、
 果たして、近いところでちゃんとした人であるか。

 時代劇のころだって、現代だって、
 なんだかでかそうなところを舞台にしている人たちや、
 天下国家を論じたがる人たちのなかには、
 あんまりちゃんとした人はいなかったという気がする。

 無数の無名のちゃんとした人が、
 これまでも、いまも、たくさんいることこそが、
 いい社会なんじゃないかと思う。
 ぼくの好きで尊敬している人たちは、たいてい、
 「ちゃんとしようとしている人」だったりする。

 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
 いまの世の中、ちゃんとした人は、いーっぱいいますよね。

 

2013年12月24日

「文章がこんなに上手くなったんです!」と言ったら「昔はどうだったの?」と言われてしまうのは目に見えている。だから、比較対象である「書き始めた頃のわたし」をどこかで見える形で残していくことは大事だなと思えました。

「比べる」というのは、
 あんまりよいことのようには言われてない。
 比べていいのわるいの決めるんじゃなくて、
 絶対的ないいわるいがあるはずだ、
 という考えのほうが人気がある。

 ジャレド・ダイアモンドさんにお会いしたとき、
 「比べる」ことが大事だと語ってくれた。
 たとえば、現在の社会と、太古の社会を比べることで、
 どこが変化してどこが変わってないのかが表われてくる。
 つまり、「比べる」ことによって、
 普遍的なものがわかってくる。
 そして、答えまでたどりつかなくても、
 考えを深化させるための「糸口」が見えてくる。
 「糸口」は、違和感と言ってもいいかもしれない。
 そのまま、すっと見逃しにくいことが残る。
 それが「糸口」なんだと、ぼくは思っている。
 
 よく「成功」した人がインタビューを受ける。
 聞き手のほうは、どこらへんに成功の原因があるのか、
 それをなんとか聞きだしたいと思っている。
 聞きだせたら、それは読者への資料として提供できる。
 「成功者」のほうも、できるだけそれに応えようとする。
 起こった結果がすでにあって、原因を語るのだから、
 かならず帳尻は合っているわけで、
 「なるほど、そうやったから成功したんですね」となる。
 ここで、同じことをしていて成功しなかったという人と、
 「比べる」ようにしてみたら、見えてくるものがある。
 そうかと思えば、なんでもかんでも
 「運だよ」と言い切ってしまう成功者もいる。
 これも、ぜんぶ「運」だと決めつけてみればいいわけで、
 そしたら、どうしても「運」だと思えない違和感が残る。

 「糸口」は、いつでも、なにかとなにかを、
 重ね合わせて見つめることで発見できるんじゃないかな。
 「うまくいったこと」「おもしろかったこと」
 「人がよろこんでくれたこと」などなど、すべてに、
 「比べる」ための半透明の図面を用意してみたいものだ。
 ‥‥また、連休明けの思いつきを書きはじめたので、
 うまく通じてなかったら許してつかぁさい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
同じに見えるものは、ちがう。ちがって見えるものは同じ。

以上です!
次は2014年版です。

Taichi Hirano