ほぼ日17周年。これまでEvernoteに保存してきた心にぐっと刺さる「今日のダーリン」特集(2014年版)

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前回の記事はこちら (2013年版)。今回は2014年版を紹介します!


2014年1月24日

芸能人でもない限り、自分が何をしているかなんて本当にどうでも良いと思っているのでそういうのは書かないようにしていて。とはいえ、そういう投稿をどんどんSNSに書いている人がいて。そういう人は、引用のような感じの人に当てはまるかも。。。

これまで、ずっとやってきたことなので、
 まことに天に向けて唾をはくようなものなのだが、
 「わたしは、ナニナニを食べた」とか、
 「ぼくは、いまドコドコにいます」とか、
 「おれは、いま機嫌がわるいんだよね」だとか、
 「よく晴れているから、気持ちがいいです」だとか、
 ツイッターだとか、フェイスブックとかで、
 どうして言うんだろうねぇ。
 これまでの人間の歴史のなかで、
 おおぜいの人に向かって、「いま焼肉を食べに行く」とか
 語りかけることって、あったんだろうか。
 日記みたいなものに書くことはあったろう。
 隣の人に、なにやら伝えることもあったろう。
 でも、知人友人が中心だとはいえ、
 それなりのサイズの「社会」に向って
 「なにやらなう」だとか「どこそこのなにやらうまーい」
 なんて、わざわざ言うんだよ、
 ときには写真なんかも見せちゃってね、
 時代劇にはありえない場面だよね。

 正直に言うと、ツイッターはじめたばかりのころ、
 なんじゃこれはという違和感はあったんだよ。
 でも、すぐに馴れちゃって、
 誰になにを言ってるんだか、意識もしなくなった。
 ま、それなりに、「多少でもおもしろがられたい」
 というような欲はあるらしくて、
 「もう寝ようかなぁ」みたいなツイートは多くはない。
 でも、「これ(つぶやきっていうのかな)、なんだ??」
 という気持ちは、なんとなくずっとあったんだ。

 で、今日、「ああ、そうか」とわかった気がした。
 幼いこどもが、おかあさんに向って、
 「あのね、ぼくね、サラダ食べたの」だとか、
 「ミッキーのおうち、いきたいねー」だとか、
 「見て見て、こんなに高いところにいるよ」なんて、
 わざわざ報告しているじゃない?
 あれと、そっくりなんじゃないかな、ってね。
 だとしたら、「幼児の遊び」の大人版かい‥‥。
 これ、けっこう正解なんじゃないかなぁ。
 けっこう自己愛的な遊びで、さらに習慣性もあるよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あのねあのね、今日の夜は『かないくん』のお話ちゅるの。


2014年1月27日

最近「よろんでもらう」経験をしていないなあ。ただ、誰かと一緒に食べるということはしていて(ランチとか)。誰かと何かをするでも、ひとりで何かをするのとは全然ちがって見えますよね。

じぶんで食べることも、
 たしかにおいしいしうれしいけど、
 誰かがおいしそうに食べてるのを見てるのって、
 もっとうれしいとも言えます。

 よく、おかあさんとか、こどもだけに食べさせて、
 「おかあさんは、いいの?」なんて不思議がられてね、
 「おかあさん、おなかいっぱいだから」
 なんて答えてる場面が、ありますよね。
 あれ、けっして、やせ我慢してるわけじゃなくて、
 じぶんが食べるよりも、こどもがよろこんで
 食べているところを見てるほうが、うれしいんです。
 (ま、そのあたり、例外もあるし、個性もあるし、
 「そんなはずはないです」なんて意見もありそうですが)

 その、人に「よろこんでもらう」ということは、
 もう、ものすごいことだと思うんですよね。
 おそらく、かなり具体的に
 脳内に快感物質がぽたぽた落ちているような状態がある。
 それは、人間という生きものに、あらかじめ
 組み込まれた性質なんじゃないかと思うんですよね。
 よちよち歩きの幼児だって、
 よだれでべとべとのなにやらをくれようとします。
 「あなたのよろこびが、わたしのよろこび」
 ということを、もっと率直な言い方をすると
 「じぶんがうれしいから、よろこんでもらいたい」
 となるように思います。
 でも、その率直さを前面に出すと、
 相手がうれしい気持ちになれないので、
 つまり「よろこんでもらえなくなる」でしょう。
 そうすると、じぶんもよろこべないというわけです。

 「よろこんでもらう」って、実はなによりの快感です。
 「はたらくこと」も、それを得るひとつの方法だし、
 たぶん、恋愛だって、家族だってそうなんじゃないかな。
 大きな災いに巻き込まれると、
 「よろこんでもらう」というよろこびが
 味わいにくくなる、という悲しさもあるんですよね。
 いつでも人は、「よろこんでくれる人」を、
 よろこばせたいと思って探しているのかもしれない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
つまりその、よろこんでいただけたら、なにより幸いです。


2014年2月10日

糸井さんは「ユーモア」ということばが好きらしく、ふとしたときに「ユーモア」という言葉を使っている。笑えるとか笑わせる技術があるとかそういうんじゃなくて、「得も言われぬたのしさ」を感じるときにこそ「ユーモア」っていう言葉がぴったりだなと思います。いいことば、使っていこう。

なにかにつけて、「ユーモア」というものが、
 大事だなぁと思うんだよねー。
 若いころは、この「ユーモア」ってことばの響きとか、
 「ユーモア」ってことを言いたがる人のこととかが、
 どうも苦手だったんだけどね。
 「ゆ~もあ」なんてさ、ひらがな書きする感じで、
 「みんな硬すぎる、わたしたちはユーモラス」みたいな、
 ちょっとした選民意識があるみたいに思えてね。
 ありきたりの小咄を、いかにも可笑しそうに語ったり、
 ループタイとか、コーデュロイの上着とかパイプタバコ、
 そういう小道具的な演出も感じてたかもしれない。
 ま、若い男なりの偏見だよねぇ、もうしわけなかった。

 でも、そういうところでイメージしていた「ユーモア」と
 まったくちがった道すじから、
「ユーモア」というものが気になりはじめたんだ。
 ちがった道すじっていうのはね、
 正しかったり、強かったりするのに、
 なんだか仲よくなれない感じの人たちって、
 ぼくの好きな「なにかが欠けている」と思ってたわけ。
 で、そのなにかっていうのが、
 「ユーモア」ってものなんじゃないかとわかったんだ。
 笑わせるとか、おもしろいことを言うとかって、
 「ユーモア」のひとつの結果にしかすぎないんだよね。

 で、さ、「ユーモア」というものの意味が、
 どういうふうに辞書に書かれているかは別にして、
 ぼくが勝手に決めたのは、
 やっぱり、「寛容」のなかま、ということなんだ。
 「寛容」そのものじゃないのかもしれない。
 でも、「寛容」がなければ、「ユーモア」はないよね。
 そして「ユーモア」があるところには、「寛容」がある。
 関係や場というものを、やわらかくあたたかくするもの。
 敵と味方に分けるのではなく、
 勝ちと敗けを区別するのでなく、
 どちらにもよろこびへの道を指し示せるのは、
 おそらく「寛容」と、そのなかまの「ユーモア」だけだ。
 あらゆる立派な意志も、「寛容」や「ユーモア」と
 いっしょになければ、冷たく脆いものになってしまう。
 「ユーモア」は、すべての人の守り神でもあると思うよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
この先、ずっと「寛容」のことを言い続けそうな気がする。

 

2014年2月24日

最後から2番目の段落がすごく好きだ。個人でやることが多かったんだけど、一緒にやってくれるチームができるようになると、なんだかひとりだけではできなかった大きなことができそうな気持ちになるんです。それは自分ができなくてもその人ができる、みたいな支えになってくれる心強さがあるのです。そのたとえを「ごはん」でできるのがすごい。

「ひとり」でいることと、
 「みんな」でいることと、
 どっちがいいとかわるいとかはない。
 「ひとり」でいられない人が、
 「みんな」でいても、しょうがない。
 「ひとり」でしかいられないのでは、
 「みんな」となにかすることはむつかしい。

 これは、あの「ごはん」というものによく似ている。
 炊いたおこめの、「ひとつぶ」「ひとつぶ」が、
 しっかりと「ひとり」としていないと、
 べたーっとしてしまって、
 「ごはん」としておいしくない。
 そして、「ひとつぶ」「ひとつぶ」が、
 たがいに離れていてぱらぱらとくっつかないのでは、
 日本のあの「ごはん」としておいしくない。
 群れから離れて「ひとり」で立っていられることと、
 「ひとり」であることさえ忘れて、
 「みんな」という「チーム」としていられること。
 茶わんに盛られた「ごはん」はそれができている。

 チームでプレイしているからこそ、できることがある。
 もみあいながら、ぶつかったり、なれあったりしながら、
 誰が誰やらわからないような発言があり、
 いつのまにか答えが出てくるようなことがある。
 これは、実におもしろいんだ。

 でも、そのチームプレイのなかでは見つからないものを、
 ひとりで探す時間もあるんだよね。
 これが、見つかったときには、ものすごくうれしくてさ。
 その「たからもの」をみやげにして、
 「みんな」をよろこばせてやろうと思うんだ。
 「さぁ、みんな、この材料をつかって、
 どこまでおもしろいことができるかな?」ってね。
 この半年くらい、わかりそうでわからなかったこと、
 もうちょっとで見えそうなことがあったのだけれど、
 とうとう見つかったような気がしている。
 あとは、「みんな」ヘの伝え方を考えるだけのことだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
『かないくん』重版出来、『カレーの恩返し』も再販売。

 

2014年3月4日

「なーんもしてないくせに、目の前のおもしろそうなことにはすぐに飛びつく。なにが大事なのかわからずに、大事なことができてない。」今の自分じゃないか、と思ってしまった。

若いときのじぶんのなかにあって、いまでもある
 「さぼりたい気持ち」というやつ。
 まてよ?「さぼりたい気持ち」という言い方はちがうか。
 「だめな方向にくずれていく感じ」、かなぁ。
 「しゃきっとするのが気持ち悪い感覚」、だろうか。
 「自堕落な」「だめだめな」なんて言われてることかな。

 わかっちゃいるけど、安楽な方向に堕ちていくこと。
 うん、後悔しながら堕ちていく悪夢みたいなもの。
 いや、堕ちていくなんていうと、
 ちょっと反抗的な自負心があるみたいだけど、
 そういうのはたぶん、ただの見栄っ張りのメッキで、
 ただ「なにをやっていいかわからなくて、疲れる状態」。
 しっかり生きてる人間のことが眩しく思えて、
 目をそらして遠ざけたくなったり、
 わざわざワルぶったりしてごまかすようなこともする。
 どうして、あれほど疲れていたんだろう、若いときって。

 その感じ、思いだしたくもないし、
 そのまま澱(おり)として沈めておいて
 かき混ぜないようにしていたのだけれど、
 ついつい思い出させられちゃったんだよ。
 東村アキコさんの『かくかくしかじか』
 っていう自伝マンガの第2巻を読んでいたからだ。
 なーんもしてないくせに、
 目の前のおもしろそうなことにはすぐに飛びつく。
 なにが大事なのかわからずに、大事なことができてない。
 時代も、性別も、立場もぜんぶちがうのだけれど、
 この青春マンガのなかに、若いときのぼくがいた。

 ずいぶん年月が経っていたので、忘れたつもりでいた。
 笑っちゃうくらいなんにもできない若いじぶんのことを、
 見捨てるわけにもいかず、持て余していた時代がある。
 どうして、そこを抜け出したのだろうかと考えてみると、
 仕事を持ったからなんだろうな、という気がする。
 「なにができるか」なんて考えてるより、
 「なにかできなきゃやっていけない」のが
 働くこと、仕事というものだった。
 たぶん、このマンガの主人公も、この先、
 仕事をしながらなにかを変えていくのだろうな。楽しみ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大事なことがわかってる若い人って、すごいものだよー。

 

2014年3月2日

今毎日書いている 日記 も、はじめたばかりのへたくそが、すこしでも変わっていく様子を記録しておきたいという気持ちからスタートしたものです。写真もそう。2015年1月1日からスタートしたのでそろそろ半年が経とうとしているけど、それもそう。へたくそだったころは忘れてしまうから、今その過程を残しておくことが大事なのだと思っています。

なんでも、はじめたばかりのころは、へたくそである。
 へたとか、うまいとかを超えて、
 とんでもないことをするし、考えるし、感じる。
 だんだん、やってるうちに憶えることが増えてきて、
 じょうずになる‥‥と同時に、
 へただったころに考えていたことを忘れていく。
 初心者ならではの、とんでもない妄想のことなんか、
 まるでなかったかのように記憶から消してしまうのだ。

 でも、ほんとうは、初心のころの感じ方や考え方が、
 その後の経験で濾過されていって、
 考えも技術も、洗練されていったはずなのだ。
 でも、なまじ上手くなったりすると、
 初心なころのじぶんが恥ずかしくなっちゃうのかな。
 最初からなんでもわかってたような顔をして、
 じぶんの歴史を捏造しはじめたりね、しちゃうんだ。

 そういうこともあろうかと、
 釣りをはじめたときに、まったく初心者のままで、
 ぼくは釣りについての文章を書きだしたのだった。
 初心者ならではの、アホな考えや、たのしみ方を、
 消さずに残すためだった。
 釣りについての、そのころに書いた文章は、
 当時、まったく釣りに関係のない
 『紙のプロレス』という雑誌に連載させてもらった。
 のちには『誤釣生活』というタイトルの単行本になった。

 初めてやることで、その後も、
 ずっとやり続けるようなことがあったら、
 はじめたての考えや思いは、記録していたほうがいい。
 そういう考えで釣りの本をつくった直後に、
 ぼくは「チーム」で仕事することをはじめた。
 組織についても経営についても、まったく知らなかった。
 その両方を、どちらかと言えば嫌っていたはずだった。
 でも、ひとりでやるのではない仕事のやり方を、
 ぼくは選んだので、すべてが勉強だった。
 そして、幸か不幸か、新しいぼくの仕事には、
 「毎日、なにか書く」ということが含まれていたため、
 その時々のじぶんが、なにを考えていたかが残っている。
 変わったこともあるし、変わらないことも、すべてね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こどものときの気持ちも、忘れないようにしてないとね。


2014年3月16日

このサービスならおもしろいことをやってくれるかもしれない、このチームだったらおもしろいことができるかもしれない。自分たちも、しごとさがしを「おたのしみ」しながらできる体験をしてもらうために、自分ができることを進めていきたいと思っています。

「なんかないかな」と冷蔵庫を開けているとき、
 「なんか」とは、いちおう食べるものであったり、
 飲みものであったりはするのだけれど、
 ほんとうは、「おたのしみ」を探しているのだ。

 味に、なにか「おもしろみ」があったり、
 かたちに「うつくしさ」のようなものを感じたり、
 その見た目や、舌ざわりや、時には「説明書き」やら、
 ネーミングやらにさえ、「おたのしみ」はある。

 「なんかないかな」の期待に、
 例えば「コカコーラ」は、ずっと応えてきたのだろう。
 ただの水は、「なんか」と言われにくいものだけれど、
 ボトルに詰められデザインされた水は、
 ただの水から「なんか」と言われるような
 「おたのしみ」に昇格している。

 水分補給をするだけのために、
 冷蔵庫の「なんか」を見つけようとしているのではない。
 その直前までの時間の流れに、
 「おたのしみ」というやつを補給したいのだ。

 服やら靴やらにしても同じことが言える。
 寒いから、暑いから、あるいは肌をかくすため、
 という理由があるから服を着るのではない。
 じぶんにとっての「おたのしみ」であり、
 他人に対しての「問いかけ」が服だと思っていいだろう。

 時代や場所によって、ちがいがあるのだとは思うが、
 人が生きていくということを円グラフで表わしたら、
 かなり大きな面積が「おたのしみ」なのではあるまいか。
 生まれてから、死ぬまで、毎日毎日、
 「おたのしみ」というものを、飲むだの食うだの、
 やるだの見るだの聞くだの語るだの旅するだのによって、
 味わっているのだと考えられるのではないだろうか。
 その「おたのしみ」がわからないと、
 人が生きていくということがわからないとさえ言える。
 おそらく、その「おたのしみ」というのは、
 人ばかりでなく、人と暮らすどうぶつにもあるはずだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」は、思えば「おたのしみ」をつくってるのかも

2014年4月8日 ★

これまでの保存してきた中で一番好きなのが、2014年4月8日の「今日のダーリン」。とくにこの部分が好きです。「ぼくらの知っている世界のほとんどは、なくてもいいものばかりなのだということを。なくてもいいものとは、あってよかったなぁと思うものだ。」なくてもいいものとは、あってよかったなあと思うもの。こんなふうに物事を逆の価値観で見せてくれるのか!と本当にびっくりしたのを今でも覚えています。

桜の木があってもなくても、
 なにか困るかと問われたら、
 問う人を納得させられるようなことは言えない。

 さくらんぼが食べられるとか、食べられないとか、
 そんなことを言ってもはじまらない。
 
 なくてもいいのかもしれない、桜の木は。
 満開の桜の下で、ぼくらはなにをよろこんでいるのだ。
 
 桜の木などなくてもいいということばにくらべて、
 言い返すことばのほうは、かんたんではない。
 だけど、しかし、言い返すのはむつかしくても、
 ほんとうのことを、ぼくらは知っている。
 実は、桜の木ばかりじゃなくて、
 ぼくらの知っている世界のほとんどは、
 なくてもいいものばかりなのだということを。

 なくてもいいものとは、
 あってよかったなぁと思うものだ。
 
 来年のこの季節まで、しばらく桜には会えない。
 そのことは少しさみしいけれど、
 やがては、忘れてしまう。
 そして、一年過ぎて、またいまごろに思い出す。
 そのていどにしか、桜のことを思ってはいない。
 だから、なくてもいいかと問われてしまうのだろう。
 
 でも、桜が咲いてよかったなぁと思う。
 手入れをしてきたわけでもないし、
 桜のことを思い続けていたわけでもないのに。
 
 おしゃれも、あそびも、おいしいものも、おもちゃも、
 たのしいもののほとんどは、
 なくてもいいと思われそうなものだ。
 そして、ときどき、あってよかったなぁと思われている。

 この島国に、こんなにたくさんの桜の木がある。
 たぶん、その多くは、人が植えたり育てたものだろう。
 なくてもいいものが、こんなにたくさんあってよかった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
北国の人たちは、これから、桜咲くたのしみを味わいます。



2014年4月19日

書き残すということは、思いの外大事で、その当時何を考えていたのか、どういうテーマでよく書いていたのか振り返ることができるのが良いところなんですよね。

とにかく、書き留めるだけで効果がある。
 体重のことでも、買い物のことでも、クスリのことでも、
 仕事のことでも、たぶん愛だの恋だののことでも。
  
 ぼく自身は、かないり長い間ずっと、
 朝起きて小用後のいちばん軽い体重と、
 夜入浴前のいちばん重い体重を計って記録している。
 おおざっぱにだけれど、夕食などもメモしている。
 体重のがーんと上がった日には、言い訳も記す。
 たったこれだけのことで、けっこう体重の管理ができる。
 計って書いておくだけで、
 なんにもしてないように思われるかもしれない。
 でも、それはちがうのだ。
 「あ、そうか」と思ったり考えたりしているのだ。
 「あれは、カロリーが高いんだな」とか、
 「やっぱり、食べる回数が多かったのか」とか、
 「風邪ひくだけで、こんなに体重が落ちるんだ」とか、
 なにかしら思うのだ。
 思うことによって、だんだんと、
 よくないことは避けがちになるものなのだ。
 ただそれだけのことが、生活を荒れさせないことになる。
 ダイエットということじゃなくても、
 「健康の実感値」を意識するということかもしれない。
 
 むだ遣いをしやすいと思う人は、
 買い物のことを書いておくといいはずだ。
 ぜんぶを記録しようと思わなくてもいい。
 うれしかった買い物や、しまったという買い物などを、
 日付の横にでもちょこっと記しておけばいい。
 どういう買い物が、後までうれしく感じられて、
 どんな買い物が後悔のタネになるのか、これがわかる。
 
 書き記すということは、実に力のある管理法なのだ。
 三十年も前のことだけれど、ぼくは、
 「ぜんそく日記」をつけながら定期的に病院に通い、
 とうとうぜんそくの発作がなくなるまでになった。
 書き記すことの大切を最初に知ったのは、あのときだ。
 
 「よくないことは避けがちになる」
 このことば、なんとなくでも試してみてみてみ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
再度言う。書き記すと「よくないことは避けがちになる」。

 

2014年5月10日

さらに、5月15日にこんなことを書いています。

「『アイディア』というやつは、仕事の外に、たくさんの「待っているもの」があるときに生まれる。その「待っているもの」とは、じぶんがじぶんの頭で「考えたことのあること」だ。仕事でもないのに、さんざん考えたことが、仕事の外側で、くっつこうとして待っていてくれる。となると、『仕事でもないのにたくさん考えたこと』が、『アイディア』の重要な材料であるということだ。つまり、ふだんどれだけ余計なことを考えたか、である。」

そのアイディアは本当に自分にとって誠実か?ということ、それに新しいアイディアは仕事のことばかり考えている人には生まれないのだと言うことがわかりました。

昨日、「アイディア」は花だという話をしたら、
 ちょうど、翌日のミーティングで、
 さっそく「アイディア」を必要とする機会があった。
 ある計画のための企画を検討する場面だった。

 一枚のペーパーに、まとめられていた。
 いくつかに分類できることが、それぞれ書かれていた。
 みんなで考えましたということだった。
 ぜんぶはやれないのは、チームの人たちもわかっていた。

 「う~~~~ん」と、ぼくは考えた。
 一所懸命にやっているのだろうことはわかるし、
 ひとつずつの項目について、
 もっと練りあげたり磨きこんだりしていったら、
 どこかに「こたえ」が見えるのかもしれないとは思う。
 でもね、どこにも「こういうことをしよう」という
 たったひとつの「アイディア」が見えなかった。
 ひとつひとつ記されていることが、
 「こういうの、あるよね」という顔をしてるのだ。

 「こういうの、あるよね」は、雑談にしかすぎない。
 「こういうことをしよう」は、「アイディア」になる。
 それは、おそらく、誰にも見分けがつくと思うのだ。
 だから、いくつものことが記されていても、
 「こういうの、あるよね」しか見当たらない場合は、
 口惜しいけれど、まだ「アイディア」が出てない。
 そういうことになる。

 この状態が、けっこう長く続くのが普通だ。
 締切りの前夜まで出てこないことさえあるし、
 課題が見えたとたんにセットで降りてくることもある。
 なんにももったいつけることじゃない。
 「アイディア」が出たか出なかったのかは、
 じぶんで判断がつくはずなのである。
 それを、判断しないままで提出するのは仕事じゃない。
 オレが出さなきゃ誰が出す、と思いながら出すのだ。

 東京タワーだとかスカイツリーとかは、
 他のビル群とまったくちがって見えるだろう、花なんだ。
 それをつくれるおもしろさを、味わおうよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まるで、社内メールみたいな『今日のダーリン』でしたね。

 

2014年5月21日

劇的に役に立たないかもしれないけど、少しの人には届いて役に立つものであってほしい。そう願っていつも書いています。

なんの役に立たなくてもいい、というものがあります。
 それは、もう、そういうものは、とても大切です。
 どちらかというと、役に立たないもののために、
 ずいぶんたくさんの時間や労力を使ったと思います。

 「きれいだねぇ」だの「いいねぇ」ももちろんですが、
 「ばかだねぇ」と笑わせてくれるもの、
 「しょうがないねぇ」と言わせてなごませてくれるもの。
 そういうものを、重々しくあつかうこともないのですが、
 なくてもいいとか、絶対に思いません。
 「わん」だの「にゃん」だのいう声も、
 思えば、役に立たないものの代表選手かもしれませんね。

 というようなことを考えるのは、ぼくの性格ですが、
 おんなじぼくが、役に立つことも大好物なんですよね。
 気分転換に、ジャムやらあんこやらつくろうとするのも、
 なにかと考えたことを実際にやってみたくなるのも、
 なんだか、似たようなことだという気がする。
 ジャムだけに、煮たような‥‥なんてことはともかく。

 「それは、ほんとにできるんだろうか?」
 という考え方を、ついついしているようです。
 「まずは、なんとかする」というのも好きですねー。
 いつから、そうなったのかはわからないのですが、
 これって「おとうさん的」ってことかもしれません。
 「おとうさん」の役の人が、
 実行力のないああだこうだばかり言ってたら、
 やっぱり家族は不安になっちゃうと思うんですよ。
 誰かが、おとうさん役をしないとだめなんじゃないか。
 いつごろからか、そういう考えになったんでしょうね。

 < 役に立たないもののために、役に立ちたい。>

 ということなのかもしれません。
 なにかと、そういう思考になっているような気がします。
 実がなって、おいしく食べられる木を植えたがり、
 しょうもない冗談を言ってはへらへら笑う老人‥‥。
 あきらかに、そういうおじいさんは、よくいるよね。
 ああ、そんな人間になっていくことが、
 わたくしの人生というものなのであろうか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
文句ばっかりでなにもしない老人ってのも、いるもんな。

 

2014年6月10日

何かしらアイデアがあるから、それをぶつけ合って楽しむのが「ブレインストーミング」の醍醐味。中身が空っぽ(ゼロ)の状態でアイデアをかけ合わせてもそれは0だよ。

「ミーティング」というのは、
 ある考えやら、思いやら、プランを持った人が、
 会う、集まってやりとりする場だ。
 
 「ブレーンストーミング」というのは、
 そこに集まった人たちが、
 まだかたちになっていない考えやら、思いつきやらを、
 とにかく出し合って、まとめることをする前に、
 ヒントのかけらを探しあうような場だ。

 「ミーティング」をやろうというときに、
 じぶんの考えを持たずに集まっちゃいけない。
 上手とか下手とかはともかく、
 じぶんの頭のなかで考えたことを持ってくること。
 なにかのコピーや、どこかに落ちてる考えを、
 ぺたぺた貼りつけて持ってきても、
 「あ、お茶をありがとう」という意味しかない。
 「ミーティング」というのは、
 その人、その人の考えが、プレイをはじめる場所だ。
 それぞれの持ち寄った考えが選手で、
 サッカーがはじまるようなイメージ。
 誰が、最終的にゴールに蹴り込むか。
 誰でもいい、得点を見たいのだ。
 
 「ブレーンストーミング」は、ゴールは見えなくていい。
 そのかわり、走り回る分量が大きいし、
 「いける!」というムードができるまでは、
 ただただ走るばかりだから、時間も読みにくい。
 求められているのは得点でなくて「希望」だと思う。
 
 経験豊かなリーダーがいると、
 「ブレーンストーミング」が、しだいに「希望」になり、
 やがて現実を組み立てていく「ミーティング」へと
 変化していくことはいくらでもある。
 でも、それは実は、リーダーのなかに、
 すでに経験に裏打ちされた「希望」があるから
 できることなのだろうと思う。
 
 えーっと、諸君、ミーティングをしてください。
 じぶんの頭で考えたことが元になければ、はじまらない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
デスクワークも、スポーツと同じ。動きが基本だからね。

 

2014年6月25日

「コレ本当にいいものなの、それを知ってほしいの」ということだったらどんどん公表していくべきだし、いいものかどうか分からないけどイイに違いないって自己暗示をかけているんなら、一度色眼鏡を外してみることをしないといけないなと思います。

商品やサービスはよいのだけれど、
 「伝え方」がよくないということは、あります。
 そういうことも、あるということです。
  
 しかし、いまの多くの人たち、
 「伝え方」に期待し過ぎだと思うんですよね。
 「なにかうまい伝え方があったら、
  もともとよかったこの商品はもっと売れるはずだ」
 と考えているひとがいっぱいいます。

 「伝え方」の研究をしよう、
 「伝え方」の技術を磨こう、
 「伝え方」のプロに依頼しよう、
 その考えのもとには、
 じぶんのところの商品やサービスは「よいもの」だ、
 という前提があるのかもしれません。
 
 コミュニケーションの時代だとか、
 ずいぶんあちこちで煽っていますから、
 多くの人たち「そういえば、そうだな」と、
 きっと考えやすいんだと思います。
 
 でも、その前にやることがあります。
 そのサービスや商品は、ほんとに「よいもの」なのか?
 それを判断することです。
 競合の商品のダメなところには、よく気がつき、
 じぶんの商品のいいところは、無理にでも探せる
 ‥‥という「色メガネ」を外して見て、
 そのモノは、そのサービスは、「よいもの」
 「おもしろいもの」「すてきなもの」ですか?
 ここの判断がおろそかだったら、
 「伝え方」だけうまく行ってもしょうがないでしょう。
 だって、あんまり魅力のないものが、
 うまいこと伝えられたって、
 (あなたがお客なら)買わないでしょう?

 それは、「商品」や「サービス」ばかりじゃなくて、
 「わたし」という人間についても同じだと言えます。
 コミュニケーションより先に、「判断」だと思うんです。
 価値あるものの「伝え方」には、苦労は要りません。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いいものができるまで、待つ。これが重要なんじゃないか。

 

2014年6月29日

わらう、って人間にとってほんとうに大事なことだなと思うんです。すれ違う人たちが笑っているのを疎ましく思うようだったら、今自分は何かおかしいところがあるサインなのだと思った方がいいです。自分はいつもそれを正常かどうかのバロメータにしています。

おだやかな、あたりの空気をやわらかくする笑いもある。
 人をいらだたせるような、ヒステリックな笑いもある。
 ついついつられて笑ってしまう、ほがらかな笑いもある。
 さみしく、じぶんを笑うような笑いもある。
 あんまり怖くて笑ってしまうという笑いもあるだろう。
 人を冷たくばかにするような笑いもある。
 こころを明かしたくなくてする、つくり笑いもある。
 
 笑いというのは、とてもすてきなものだけれど、
 ただただいいものだとは思えない。
 どこかの店のテーブルから、他人たちの
 攻撃的なまでの高笑いが聞こえてくると、
 傍若無人ということばを思い出してしまう。
 だが、そのちょっと手前くらいの笑い声ならば、
 「たのしそうでいいな」と感じたりもするものだ。

 笑っているようすは、陽気で明るくて
 誰が見てもいいものだ、とは思わないほうがいい。
 感情を素直に出すということが、
 いつでも誰からでも肯定されるということはない。
 大声だとか大笑だとかは、他人の安心できる場所を
 奪ってしまうことがある。
 
 たくさん年をとって無口になってきた老人だとか、
 まだことばをおぼえていない赤ん坊だとかの、
 なんとも気持ちのよさそうな笑い声やら笑顔は、
 ひとつの憧れのようなものである。
 
 「笑む」とは、つぼみがほころびるようす、
 果実が熟して裂け開くようすの意味を持つ。
 なかから、見えぬなにかが吹き出すようなことだ。
 その吹き出す力が、過剰であるような場合には、
 なにかの不満があるのかしらんと思うし、
 ほどよくぽっと吹き出すのを見たら、
 生きていることのいじらしさを感じるだろう。
 
 ちょっと笑う、というあたりの笑い方が、
 人の品みたいなものを感じさせるのかな。
 笑わないと言われている犬に見つける笑いは、
 その、ちょっと笑ってるようで、とても品がいい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ま、なんでも、過ぎたるは及ばざるより悪しなんだよなぁ。

 

2014年7月3日

ぐっと刺さることば。「考え続けること」からうっ…てなってFacebookに逃げてしまうこと結構あるので、器をつけないといけないなと思っています。

いろんな企画だとかアイディアだとかいうようなもので、
 とにもかくにもそれしかないというくらい重要なのは、
 「ずっと考え続けること」だと、
 ばかのひとつ憶えのように言っている。
 「ずっと考え続けること」の逆は、
 「こんなもんでいいんじゃね?」なんじゃないかな。
 「こんなもんでいいんじゃね?」と同じ意味のことばは、
 「これしかないよね」だとか、
 「思い切って、これだよね」とか、
 「いっそ、シンプルにこれで」とかいっぱいある。
 たいていは、考え続けることに疲れたときに、
 そういう、じぶんを励ますようなことばにすがる。

 ほんとうは、まだ「すっごい」のができてないと、
 じぶんでもわかっているのだ。
 でも、考え続けるための光を見失っているし、
 もう堂々巡りには疲れたという気持ちがあるから、
 「いっそ!」と言って元気を取りもどそうとするわけだ。
 「ずっと考え続けること」というのは、
 スポーツ選手のリハビリがきついとかと同じように、
 なんだか手応えがわからないのに痛いばかりで、
 不安にもなるし疲れるし、
 なにより元気でやるのがむつかしい。
 無意識で逃げたくなるし、その逃げを正当化したくなる。
 ほんとにあつかいにくいものなのだ。
 どうしたら「ずっと考え続けること」ができるか、
 といえば、「考え続けたらなにかを見つけた」という
 経験をひとつずつ増やしていくことしかないと思う。
 そのためには、どうしたらいいかというと、
 「ずっと考え続けること」から逃げないこと。
 逃げたとしても「あ、おれは逃げた」と知っていること。
 ほんとの「すっごい」にたどりついてる例を見て、
 「できるものなんだ」と感じること。
 「ずっと考え続けること」を、じぶんはできているか?
 できているときもあるし、早く楽になりたいときもある。
 楽になっても、また、宿題が残るものなんだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
解決可能なことと解決不可能なことに、丁寧に分けること。

 

2014年8月1日

月が変われば、ツキがかわる。最近なんか調子がいいなと思ったけど、やっぱりそうでもないね、ということが多くて、そういうの大体気分と同じようなものだから、深く考えないようにしています。「今日のダーリン」って最後の1行がとてもおもしろくて、今回は「ツキはお天気みたいなものだから、雨具を忘れないことね。」。うまい。

月が変わりました。
 7月31日から、8月1日になったというだけで、
 なにかが変わるわけはない、と思う人と、
 月が変わったから、ツキが変わると思う人がいます。
 ツキとかって、あるのかどうかも、
 ほんとはわからないことなんですが、
 それについては、よく考えさせられますよねぇ。

 思いこむっていうのは、すごいことです。
 じぶんたちにはツキがない、
 なにをやってもうまくいかないと思っていると、
 やっぱり、そういう動きになっちゃうんですよねー。
 ポジティブ思考だとか、ネガティブ思考だとか、
 そういうことを言うつもりもないんですが、
 「だめだろう」と思いながらやるって、
 やっぱりうまくいく可能性も少なくなると思うんですよ。

 そうかといって、「できる」と思っていれば、
 ほんとうにできるのかと言えば、そんなこともない。
 「できる」といくらじぶんに言いきかせても、
 できなかったという結果を何度も見せられたりすると、
 もう救いがないところまで行っちゃうような気がして、
 これはこれで怖いわけです。
 
 ツキはコントロールできないということは、
 誰でもうすうす思ってることではあります。
 でも、できることなら、
 じぶんの力以上の結果がでますようにと、
 さまざまな「思いこみ」のネタを探したりもするわけで。
 そういうネタのひとつが、
 月が変わったらツキが変わるなんですよね。
 それを言ってたら、ほんとにそうなったっていうこと、
 これまで、何度もあったのも確かなんです。
 
 ぼく自身は、ツキについてどう思っているか。
 これが、ほんとのところ、じぶんでもわからないんです。
 じぶん自身が当事者であることについては、
 ツキなんてものに振りまわされないようにしてます。
 で、じぶんじゃなにもできない野球なんかのことでは、
 月が変わってツキが変わるとか、期待してるみたいです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ツキはお天気みたいなものだから、雨具を忘れないことね。

 

2014年8月4日

これ、本当ですよね。社会人になったら、朝が本当に強くなりました(平日のみ)。ただ、半ば強制的な「起きねばならぬ」なので自然と、、ではないのですが、「これはやらないといけない」ということは体の中から発せられると本気でできるようになるのだなと今も実感しています。

学生時代は、寝坊ばかりしていて、
 「わたしは、どれくらい起きられないか」について、
 自慢なんじゃないかというくらい力説していた人も、
 社会人になると、どういうわけか寝坊しなくなります。
 いや、まったくしなくなるわけではないでしょうが、
 「目覚まし時計を5つかけても、起きられない」
 なんて言ってたはずの個性が、
 目覚ましひとつで起きられるようになっています。
 ぼく自身も、そういう人間でした。
 
 「禁煙だけは無理だ」と言って、
 それを確信していた人は、世の中にたくさんいます。
 嵐のなかでもタバコを買いに走ったり、
 吸い殻に火をつけてでも吸ったりもするような人。
 でも、どうやってという方法はともかく、
 タバコを吸うのをやめた人も、たくさんいます。
 ぼく自身も、そういう人間でした。
 
 どちらのケースも、「意志のせい」だと思うと、
 大きな挫折感を味わうから、
 「意志のせい」にしないほうがいいと言われています。
 実は、その考え方については、ぼくも賛成なのです。
 根性があるとかないとか、意志が強いとか弱いとか、
 そういうことで追いつめられたら、
 いま以上に世知辛い世の中になっちゃいますよね。
 
 ただ、その「意志のせい」にしないほうがいい、
 ということを前提にしたうえでではありますが、
 割り算でいえば、まだ余りがでるような気がしてました。
 やっぱり、本気で「やろう」と思ったらできたんだよな。
 そういうことに気づいているわけです、じぶんも。
 人に言われてやるんじゃなくて、じぶんが本気になって、
 「こうしよう」ということになったから、できた。
 それは「意志のせい」とは、どうちがうんだろうか。
 
 「本本気」と「本気」のちがいっていうのかなぁ。
 変化を実現したいっていう「本気」がほんものなら、
 やっぱりできちゃうことってあるんですよね。
 大手術をして医者に止められてタバコ吸ってる人は、
 ぼくの知っているかぎりでは、ひとりもいないもんなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
重要なのは「じぶんの」っていう、当事者性なのかなぁ。

 

2014年8月22日

「断りやすい」。相手側に立って、断りやすい雰囲気をつくるのって今の自分には難しいけど、頼んだときに「うーん…」という表情を見せたときには、できるだけ「本当に大丈夫?どのくらい時間がかかりそう?」と聞いていますが、それだけで配慮が行き届いているかどうかは不明です。。

ぼく自身も、「ほぼ日」の乗組員たちも、
 気をつけていることなのですが、
 こちらからなにかお願いごとがあるときに、
 あちらが「断る」ということを、
 いつでも意識していたいと思っています。
 「お断りになることを歓迎します」とまで、
 わざわざ言うことではないのでしょうが、
 とにかく、「お断りさせてください」という返事が、
 言いやすいような頼み方をしたいと考えています。

 ぼく自身も、「ほぼ日」というチームも、
 こちらから依頼することもいくつもありますが、
 依頼されるということも、よくあります。
 そのときに、断りやすいような配慮を含んだ依頼には、
 信頼感を感じたりするものです。
 頼みごとの文面に、重くない感じで、
 「お断りいただいてまったく問題ありません」
 などと添えられていると、とても助かります。

 「断れないような頼みごとはするもんじゃない」
 というのは、尊敬する先輩方に共通する考えです。
 ほんとに、ぼくもそう思うし、
 「断ることを許されない頼みごと」というのは、
 考えてみたら「命令」というものですよね。
 外国映画のなかのセリフに、
 「これは命令だ」というのはよくありますよね。
 
 袋小路に追いつめた状態で、なにかをするというのは、
 なんでも、だいたい、よろしくないことです。
 それをやりがちなのは、ほとんどが、
 じぶんが「善いこと」をしていると思っている人です。
 じぶんがやっていることが「善いこと」でないと、
 人を動かしにくいから、
 じぶんのしていることを、どんどん
 「善いこと」だと思いこむように、
 じぶんをも「追いつめて」いってるのかもしれません。
 「善いことをしているときは、
 悪いことをしていると思っているくらいで、
 ちょうどいいんだよ」とは、吉本隆明さんのことばです。
 正義のお面をかぶりたがる人は、かないまへんな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
読んでもらえる来てくれる、というのはうれしい励みです。

 

2014年9月14日

まだ結婚なんて考えていないのだけど、最近大学のサークルの同期が結婚するらしく、このことばを言ってあげたいなと思います。でもさ、結婚もしていない人間が言ってもあまり言葉に重みを感じなさそうですよね。笑

これから結婚するという人たちに向って、
 ぼくがなにかいいことを言えるとは思えない。
 だいたい、いいことなんてのは、
 人生の先輩どころか、歴史の先輩方が言いつくしている。
 
 ぼくは、儀式というものがどうにも苦手で、
 ずいぶん長く生きてきたわりには、
 冠婚葬祭の席についていることが少ない。
 そういう意味では、いつも新鮮な気持ちで、
 これまでにさまざまな先人たちによって、
 語られてきたいいことばをよく噛みしめている。
 
 愛について家庭について、幸福について人生について、
 ほんとうに、人間はたくさん考えてきた。
 こういう場で語られることを、
 大切に胸にしまっておいて、
 それを毎日のように取りだして磨いていたら、
 きっとすばらしい日々が重ねていけるだろうなと思う。
 若き新郎や新婦以上の思いで、
 ぼくは、パウロからコリント人への手紙やら、
 『星の王子さま』の作者やらのことばを受けとめる。
 こういうものは、年をとってからのほうが
 本気で聞けるのかもしれないとも思う。
 
 そのうえで、このじぶんがなにか言えることがあるのか。
 それを、いつも考えることになる。
 あえて言うとすれば、こんなことかな。
 新しく夫婦になる人たちを、
 周囲は、できるだけ自由にしてやりたいものだと思う。
 あんまり大きな期待を押しつけちゃいけないと思うのだ。
 それくらいかな、ぼくが考えつくことは。

 だから、ちょっと逆説的になるけれど、
 「幸福になる義務はないよ」というようなことを言う。
 周囲の人は、よく「幸せになれ」と言うものだけれど、
 幸福は、なろうとして追いかけたら逃げていくものだ。
 しかし、前に見える逃げていく幸福は、
 後ろや、横には、よくいるものだったりする。
 「あ、これか」と気がつくのが幸福なのではないか。
 こういうことも、年とるまでは知らなかったんだよな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
祝いも、別れも、相手を自由にしてやれるかどうかが基本。

 

2014年9月27日

「早さというのは、インターネットの便利な特長なので、忘れちゃいけないとは思うのだけれど、便利な特長だからといって、「早く早く」と急ぐというのは、あんまりよくない。早さでも、熱心さでも、競争みたいになっちゃうと、誰にもよろこばれない迷惑なものになりやすい。」もちろん、早く出さないと乗り遅れるみたいなこともあるのだけど、そういう早い時流に乗っからないところでじっくりやることが、自分の強い経験になりそう。

このごろ、あらためて気がついたのだけれど、
 「ほぼ日」でやっていることのなかには、
 ずいぶん時間のかかっていることがいくつもある。

 「こういうことをやろうか」と考え出して、
 それを、「やろう」ということになり、
 誰が中心になってやるのかを決めて、
 具体的に、どうやるかを話していって、やりはじめる。

 これは、いちばん早いサイクルでは一日でできる。
 なかなか、ほんとうに一日でやることはない。
 もうちょっと時間をかけても差し支えないことならば、
 その「もうちょっとの時間」は、
 けっこう大切な役目を果たしてくれるからだ。
 ただ、ほんとうに急ぐ必要があるときには、
 三日くらいで、あるコンテンツがはじまることもある。
 東日本大震災に関わるページなどは、
 そういうケースだったと思う。
 早さというのは、インターネットの便利な特長なので、
 忘れちゃいけないとは思うのだけれど、
 便利な特長だからといって、
 「早く早く」と急ぐというのは、あんまりよくない。
 早さでも、熱心さでも、競争みたいになっちゃうと、
 誰にもよろこばれない迷惑なものになりやすい。
 
 あらためて気がついたのは、遅いプロジェクトのほうだ。
 先日打ち合せした「おもしろい企画」は、
 そういえばもう三年以上じわじわとやっている。
 おそらくこの後も、一年以上かかるはずだから、
 みんなの前にお目見えするのに五年くらいかかるだろう。
 いま出ているもののなかでも、
 三年や五年かかっているものは、いくつもある。
 ぼくらはインターネットの仕事をしているのに、
 やってることはずいぶん「遅いものだなぁ」と、
 我ながら苦笑してしまったのだった。
 半分以下の時間でやることも、できたかもしれない。 
 言い方はわるいけれど、さぼっていた時間もありそうだ。
 だけれど、時間がかかるものはかかるということを、
 覚えておいたほうがいいんだろうなとも思うのだ。
 それでやっていけるのだったら、やれるうちはね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いいことかどうか、「ほぼ日」って農業に似てる気がする。

 

2014年10月2日

もう、ここまで長いとスクロールするのがめんどくさいかもしれないですね。笑  

笑っている人が、本当にいま楽しくて笑っているのか、それとも悲しさを越えて笑っているのかは、端から見るだけでは分かりません。だけど、そういう表情をしているんだったら、それに応えてあげるのが道理なんだろうなと感じました。

悲しいときに、悲しそうな顔をしているのは、
 素直でよいことなのかもしれません。
 だけど、いちばん悲しそうな顔に見える人が、
 いちばん悲しんでいるというわけでもありません。
 
 悲しいに決まっているというときに、
 それをいったん心の奥にしまっておいて、
 晴れやかな表情をつくっている人がいます。
 今年も、あの人、この人、と何人か会いました。
 悲しかったり、さみしかったりするのに決まった状況で、
 人を元気づけたり、励ましたりする側に、
 すっと居場所を見つけて微笑んでいたりできる人。
 そういう人に、ぼくは、
 「無理しないで悲しんだらいいのに」とは、
 絶対に言いたくありません。
 悲しんでいいとじぶんで思ったときには、
 きっとその人は悲しんでいるのでしょうから。
 いまそのときの笑顔には、笑顔で応えるのが、
 大人としての礼儀であるように思います。

 そういう人たちを、特にあの震災のあとから、
 何人も見てきたような気がします。
 じぶんなら、そういうふうにできるかなと、
 じぶんに問いかけてみても、
 ほんとうのところはわかりません。
 実際にそうなったときにしかわからないことでしょう。
 でも、悲しみやさみしさや、
 時には怒りや憎しみというようなものを、
 静かに休ませておく場所を持っている人のことを、
 ぼくは尊敬してきましたし、
 じぶんもそうありたいと思ってきました。

 だからもし、じぶんの前に大きな悲しみがきたときには、
 あの人たちのようにあろうとするでしょう。
 そして、あの人たちのようにできたらうれしいし、
 そうできなかった場合には、「そうか」と思うでしょう。
 それが、そのときのじぶんなのですから。
 ただ、まだまだ、あの尊敬できる人たちには、
 ずいぶん及ばないものだなと、知ることになるでしょう。
 せめて、なにもないときには、たっぷり笑いましょうか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
こうありたいなと思えるような人がいるのは、いいものだ。

 

2014年10月10日

「飽きやすい」「本気になりきれない」ことが、実は個性なのかもしれない。気になる「今日のダーリン」には通常「★」をつけているんですが、これは「★★」でした。当時よほど気に入ったんだろうなー。そういうのがわかるの楽しい。

個性がないとお嘆きのあなた。
 あなたは、じぶんに個性がないと思っておられる。
 さらに、なにかしらの取り柄もないと考えておられる。
 しかし、見逃してはいないか。
 あえて、見逃してはいなかったか。
 あるではないか、そこに、個性の原石が。
 
 あなたには、欠点だの弱点だのがある。
 そんな欠点や弱点は、他の人は持っていない。
 ま、他の人には他の人の欠点があるのだけれど、
 個性も取り柄もないというあなたにも、
 欠点というものがあるということを思いだそう。
 
 そう、それこそが、探していた個性だ。
 個性とは、「訛り(なまり)」のようなものだ。
 人がおぼえているのは、あなたの「訛り」だ。
 人並みだの、恥ずかしくない程度のだの、
 まぁまぁのだのという部分は、人はおぼえてくれない。
 「おれ、訛ってるかなぁ?」の、その訛りをこそ、
 人は聞いているものだし、
 あなたが欠点だと思っているところをこそ、
 人はおぼえているものだ。
 そう、その欠点はあなたの「しるし(サイン)」なのだ。
 それが、個性というものなのだ。
 
 問題は、欠点という原石を、どう輝かせるか。
 そのままじゃ、妙な石ころに過ぎないものを、
 磨いたり削ったりして「個性」にしてしまう。

 このやり方は、人間にかぎらない。
 欠点や弱点のある地方が、それを「個性」にする。
 欠点や弱点のある組織が、それを「個性」にする。
 そういう考え方を、してみるほうがおもしろそうだ。
 欠けているところや、足りないものについて、
 まずは追いつこうなどとしていたら、
 追いつく前に埋もれて腐ってしまうかもしれない。
 欠点やら、弱点やらだと思われていたことを、
 どういうふうに「うらやましいもの」磨きあげるか‥‥。
 取り柄を探すとき、ついででいいから欠点を探す。
 弱点克服じゃなくて、弱点の価値化への挑戦だ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、若いときのじぶんに言ってるような気がしました。

 

2014年10月31日

Wantedlyの行動指針に「Code wins argument」ということばがあります。議論してないでまずはコードを書け、ということ。これも同じようなことを言っています。まずは糸口をみつけるために簡単なものをつくってみる。このご時世、言っているだけではダメなんだよね。

「どこかに百万円落ちてないかなぁ」と言ってる人で、
 ほんとうに、百万円落ちてるかどうか目を見開いて、
 注意深く暮らしている人は、まず、いないのではないか。
 
 夢のようなことを口にする人と、
 夢のようなことを実現する人とは、
 まったくちがうのではないかと思っている。
 
 「どこかに百万円落ちてないかなぁ」にしても、
 「白馬に乗った王子様がわたしを」にしても、
 ほんとうじゃないことを設定して口にしている。

 口にする前の思いは、きっとあるはずなのだ。
 「大きなお金を手にしたい」だとか、
 「わたしを幸せにしてくれる人と結ばれたい」だとか、
 本気で思ったら、糸口を見つけはじめるようなことだ。
 でも、その糸口を見つけるところまで行く前に、
 「大金が落ちている」だとか、「王子様がいる」とかの
 「言うだけの夢」に変換しちゃっているのだ。
 
 糸口を見つける、その糸を引っぱりはじめる。
 それをするのは、なかなか大変なことなのかもしれない。
 頭も使うし、他の人の協力も必要だろうし、
 あり余っているわけでもない時間を、
 たくさん使わなくてはならないだろうし、
 その前に、足や手を動かすことが大事かもしれない。
 
 「誰かマスクメロンをまるごと一個くれないかな」
 と言いっぱなしで待ち続けているよりも、
 じぶんの財布のお金で買ってみたらいいのだ。
 そのせいで、数日食うに困ったとしても、
 「マスクメロンまるごと一個食べる」という経験が、
 なにかを魂に刻んでくれるにちがいないと思う。

 おそらく、人間には、ある種の「趣味」として、
 本気じゃない夢を語りたいということがあるのだろう。
 本気になるか、語るのをやめるかしたほうが、
 ほんとの夢は叶うだろうなぁと、ぼくは思う。
 ま、本気になって、しかもそれを持続させるというのは、
 寝ころんでテレビ見てるより、むつかしいからなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほんとうにほんとか?」と、よくじぶんに問われてきた。

 

2014年11月19日

確かにまずやってみることは大事なのだけど、できないだろうなーということに時間と労力を使うのではなく、「やってみたらうまくいくかもしれない」ときに、やってみるのが大事だなと。早くやり始めるのは大切だけど、早まりすぎないも大切です。

「やってみなくちゃわからない」ということばは、
 たいていの場合、とても肯定的に使われる。
 「やろうともしないでダメだと決めつける」というのが、
 その反対の言い方ということになるだろう。
 
 ぼく自身も、よく、
 「やってみなくちゃわからない」と言いたくなるし、
 言っていることもある‥‥かな、あると思う。
 元気がよくて、チャレンジャーっぽいから、
 少々胸の鼓動は高まりつつも、言ってて気持ちがいい。
 
 しかし、よくよく考えてみると、
 「やってみなくちゃわからない」と、
 なにかを後押しするようなセリフは、
 ほんの少しでもいいから、ほんとうに(ほんとうに!)、
 「やってみたらうまくいくかもしれない」ときに、
 言うべきことばであると思うのだ。
 
 小学生が、プロ野球のゲームに代打で登場して、
 「やってみなくちゃわからない」と言えるだろうか。
 小学生が登場するという、あまりの意外さに、
 あるいは、ぶつけちゃいけないと意識するあまりに、 
 投手がコントロールを乱して、
 暴投をするとかいうことは考えられるかもしれない。
 しかし、この場面で本塁打やらヒットが生まれるとは、
 「やってみなくてもわかる」ことだ。
 
 「やってみなくちゃわからない」という発言が、
 人びとに歓迎される理由というのは、
 「やってみなくてもわかる」ことが、
 世の中には、あまりにも多いからである。
 みんな、ほんとは「やってみなくてもわかる」ことを、
 こころの奥ではわかっているはずなのだ。
 だからこそ、「ひょっとしたら」のファンタジーに、
 期待してみたくなるのだ。
 しかし、それが高じてやらなくてもわかることについて、
 考えもしないで「やってみなくちゃわからない」を
 インフレさせることは、かえって
 ほんとの希望を失わせるような気がする。
 ま、こういう話は、あんまりウケないんですけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
運や偶然は、あとから語るもの。あてにしちゃいけないの。

 

2014年12月2日

忙しい、という言葉をつかうとダサいな、と思って、そのことばは、ここ最近使っていないです。

「おとうさんは忙しいから」と言って、
 今日が終わった。
 なにが忙しいのか訊かれたら、
 たぶん、うまく答えられなかったと思う。

 「おかあさんは忙しいから」と言って、
 今年が終わった。
 なにが忙しいのかよくよく考えたら、
 たぶん、よくはわからなかったと思う。
 忙しいから、
 忙しいから、
 忙しいからと言いながら、
 毎日が終っている。
 忙しいから、
 忙しいから、
 忙しいからとあわてながら、
 わたしはなにをしてるのだろう。
 思えば、ずっと忙しいらしい。
 生まれてから死ぬまで、
 もしかしたら、ずっと忙しくて、
 なんにもできずに終ってしまうのかな。

 「あなたのそのヒマを売ってもらえませんか」
 忙しいひとが、忙しそうにたずねていた。
 ずっと公園で昼寝していた男が、
 「いいよ、いくらでも持ってってくれ」。
 忙しそうなひとは、売ってもらったヒマを抱えて、
 大急ぎで走り去っていった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 じぶんのことだけじゃなく、
 まわりを見渡しても、みんな忙しそうだ。
 時間の勘定のしかたを、
 たぶんまちがっているのだ。
 なんか、忙しいと言うたびに、
 時間が減っていくような気がする。
 忙しいの反対は、「たのしい」なのかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そうかと思えば、ヒマをつぶすのに忙しいひともいるよね。

 

2014年12月25日

2015年は写真をやろう、と考えてから、何をコピーに掲げようかと思って参考にしたのが、この日の「今日のダーリン」。ちなみに、『へたがばれてから、こそが、自分自身のつくってきた「じぶん」なのだと思います。毎日1枚写真をアップロードします。』です。

 <ばかがばれてから>

 こうして、毎日毎日、「ほぼ日」になにか書いている。
 この他にツイッターでも、しょうもないことを言ってる。
 対談も、ずいぶんたくさんやってきた。
 声で、あちこちでしゃべっていることもある。
 取材を受けて、あれこれ語ってもいる。

 これだけたくさん語っていると、
 どんなにりこうぶっても、ばかがばれてしまう。
 もっと奥深い人物だと思われたいとか、
 なかなかの教養人、のふりをしていたいだとか、
 みごとな表現者であるとか、
 ああ見えてたいした男ですよ、であるとか、
 どういうふうに取り繕っても、もう遅い。
 ばかは、すっかりばれているのである。

 実物大のぼくが、どういうものであるか、
 すっかりばれてからが、ぼくの勝負であると言っていい。
 多少でも「まし」なところがあるとしたら、
 もともと持っていたものなのか、
 それともばかが少しずつ身につけたものなのか、
 どちらかであるというわけだ。
 どのみち、たいしたものじゃぁない。

 謙遜しているのではないことは、
 ぼく自身もちゃんとわかっているし、
 ぼくの書いたり言ったりしていることに
 ずっとつきあってくれている人なら、わかると思う。
 これだけ大量に、ひっきりなしになにか言ってると、
 もういまさらごまかしようもないから、
 ばかがばれていることについて、あきらめられるのだ。

 ただ、ずっと同じばかでいるよりは、
 そこから、もっとナイスなばかになりたいとか、
 ここらへんは、ばかのままじゃ迷惑がかかるなとか、
 努力というようなものを始めたり、
 勉強してみようかとかいう気になったりするわけだ。
 そう、つまり、ばかがばれてから、こそが、
 ぼく自身のつくってきた、ぼくというものなのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それでもまだ、ごく自然な見栄でばかじゃないふりもする。

 

2014年12月27日

ベッドにぶふぁって寝っ転がって、ふわふわっと寝る時間って大事だと思ってはいるんです。だけど最近、本当に「ながら寝」が多くて、まずいなと思っています。やりかけの状態でベッドに転がらない、をまずは意識しようと思っています。。

寝ているときに、なにかすることはできない。
 眠っていて、なにか考えの足しになるようなことが、
 少しくらいはあると思っている人もいるかもしれない。
 夢でなにかいいことを思いつくとかね。
 でも、そういうことが仮にあるとしても、
 そのために準備することも、努力することも意味はない。
 だとしたら、寝るときには、寝るしかない。
 眠ることの他に、ちょっとでもなにかできるのなら、
 きまじめな貧乏性のきみに、健闘を祈ると言いたいが、
 ないよ、そんなもの、なにひとつ。

 寝ることになったら、寝る以外の道はない。
 それを知ったら、寝るというのは
 なににも煩わされない無闇な解放ではないか。
 いますぐそこにある天国であるとも言えるだろう。
 苦労も、心配も、義務も、事情も、借金も、宿題も、
 なにひとつ影響しないのだから、忘れればいいわけだ。

 いまごろわかったのだ、こんなことが。
 ぼくは、寝床に入っても、なんとなく
 まだなにかできることがあるような気がしていた。
 寝る前に、なにか考えかけて眠りについたら、
 それなりに一仕事したくらいの気持ちになっていたのだ。
 寝るときには、寝るというだけで、
 十分であるし、そこで寝たことでまた元気になれる。
 アントニオ猪木も言ってるけれど、
 「元気があればなんでもできる」のだから、
 寝るときに寝る、というのは大事な大仕事なのである。

 このことがわかると、休みについての考えも整理される。
 「休んでいる間に仕事のことを考えている(つもり)」
 というのは、休むことができてないということだ。
 仕事をしているときに休むのは仕事のじゃまだ。
 逆に、休んでいるときに仕事を考えるのは休みのじゃま。
 こんなに当たり前のことが、
 「寝床に入ったらなにもできないだろうの法則」によって
 心から理解できたような気がする。

 さぁ、目の前には、たっぷりの休みがある。
 そして、連日、目の前に、寝てもいいベッドがあるぞ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ながら」というのが、いちばんよくないクセだったんだ。

2015年版もやりたいところですが、たぶんもう一回これをやるのはしんどいので、ここで一旦おわり。これからも「今日のダーリン」読み続けます!(^^)

Taichi Hirano